終戦後四七年に日本では民間貿易が再開されましたが、統制経済の中で商品ごとに異なる複数為替相場を使用していました。四九年四月に経済安定化政策であるドッジ・ライン政策の一部として一ドル三六〇円の単一相場が設定され、市場経済への移行の重要な一歩となりました。五二年八月に日本は、国際通貨基金と世界銀行に加盟し、戦後初めて国際的な金融機構への仲間入りを果たしました。同年七月、東京外国為替市場が、為替銀行の持ち高調整の場として開設されました。六〇年には、円の交換性回復が「円為替」制度の導入という形で行われました。これにより海外との為替決済に、外国通貨のみならず日本円の使用が可能となり、国際通貨としての円の第一歩が踏み出されたのです。六四年には日本は経常取引に関しては為替制限を行うことのできない「IMF(国際通貨基金)八条国」に移行すると同時に、OECD(経済協力開発機構)への正式加盟を果たしました。これにより日本は経常取引の自由化のみならず、資本移動の自由化へ向けても大きく踏み出すことになったのです。六〇年代の後半からは日本の国際収支は黒字に転じ、円切り上げ論議が活発になりました。七一年のスミソニアン合意によって円のセントラル・レートが一ドル九二〇八円に決まりましたが、国際金融市場の動揺は収まらず、七三年変動相場制に移行したのです。七三年のオイル・ショックを日本経済は見事に乗り切り、世界の注目を浴びましたが、七七年にはアメリカが経常収支の大幅赤字を記録する一方、日本の経常収支は大幅な黒字となり、輸出主導の経済回復に世界から厳しい非難を浴びることになったのです。日本は内需拡大のための努力と同時に、八〇年には外国為替及び外国為替管理法(「外為法」)の改正を行い、それまでの外国為替取引を原則禁止とする考え方から原則自由の考え方に移行しました。資本取引については国際収支の均衡を維持することが困難な場合などに限って有事規則を発動できるようにしましたが、これまで実際に発動されたことはありません。この外為法改正により日本企業の海外投資、外国企業の日本進出が容易になり、居住者あるいは非居住者の双方にとって大幅な資本取引の自由化が行われました。